ダフネに連れられて来たのは、街の片隅にある小さな店――「カフェ・プラントン」のテラス席だった。目の前を流れる運河は、信じられないほど透き通っている。水の中を、淡く光るプランクトンが、ゆっくりと泳いでいくのが見えた。……綺麗な街だ。悔しいが、素直にそう思う。
テーブルには、湯気の立つ紅茶と、貝殻のかたちの焼き菓子。おだやかな午後だ。だが、ふと見上げて、俺はまた思い知らされる。そこにあるのは、太陽じゃない。「水底から見上げた陽の光」が、天井いっぱいに、揺れるカーテンのように降りそそいでいるだけだ。本当に、俺たちは海の底にいるらしい。
俺は店のノートを一枚借りて、鉛筆を走らせた。描いたのは、俺の故郷――「上の世界」だ。
「俺の世界には、遮るもののない、本物の太陽がある。白い雲が、海みたいに、どこまでも広がってるんだ。……そして、その雲の上に、いくつもの浮島が浮かんでる。人はみんな、飛行船に乗って、島から島へ旅をするんだよ」
ダフネは、頬づえをついたまま、目を輝かせて、俺の下手な絵を見つめていた。作り話を聞くような顔じゃない。まるで、いつか自分の目で確かめたい景色を、心に写しとるような――そんな目だった。
その時だった。彼女の黒猫――ピクシスが、テーブルに置いた俺の割れたコンパスを、前足でちょん、ちょん、とつついた。ガラスの砕けた、とっくに壊れているはずのコンパス。その針が、磁石の決まりなんて無視して、まっすぐ「上」を――俺の故郷がある、本当の地上の方角を指したまま、小さく、静かに震えていた。
上、か。ここから出られる道があるとすれば、それはきっと、俺たちの頭の、ずっと上にある。ダフネと俺は、どちらからともなく顔を見合わせた。そして紅茶の湯気の向こうで、誰にも聞かれないように、声をひそめて――これからのことを、そっと話しはじめた。